2010年3月 8日
鉱山の歴史
柵原鉱山は慶長年間に津山城を築城時、石材を集める際に褐鉄鉱の露頭を見つけたことが発見のきっかけと言われている。しかし江戸時代の間、地元では発見された褐鉄鉱のことを「焼石」と呼ぶのみで全く利用されることはなく、柵原鉱山の採掘が始まったのは明治時代になってからであった。
1882年、柵原本鉱体の隣にある下柵原鉱体に当たる場所で、硫化鉄鉱の採掘を開始したのが柵原鉱山の採掘の開始であった。しかし当時の硫化鉄鉱の用途としては塗料と緑礬の製造くらいしかなかったため、鉱山の経営は困難で鉱山の所有者は転々と変わった。そのような状況の中、1893年になって吉井川対岸の久木地区から銅を含有する硫化鉱の露頭が発見され、久木鉱山と名づけられ好成績を挙げた。この露頭は後に久木鉱床と呼ばれるようになる。また1890年代にになると硫化鉄鉱も化学工業で多用される硫酸の原料として注目されるようになり、硫化鉄鉱の採掘もまた軌道に乗り出した。
1984年、柵原付近の地質調査を行った地質学者の巨智部忠承は、褐鉄鉱の露頭を発見して製鉄材料に有望と判断した。この露頭が柵原本鉱床の露頭にあたり、1900年から露天掘りで褐鉄鉱の採掘が開始され、八幡製鉄所に送られるようになった。1902年には八幡製鉄所の事業が一時的に縮小された影響で一時休山となるも、日露戦争の開戦に伴う鉄鋼増産のために再開され、1905年には鉱山の経営権は鳩山和夫ら3名の手に渡った。鳩山らの経営時代、柵原本鉱床から硫化鉄鉱が発見され、硫酸の需要増大のために一時的に盛んに採掘されたが、日露戦争終結後の不況のために硫化鉄鉱の採掘は中断され、坑内湧水の増大によって鉱山自体の経営が困難となってしまい、1907年には再び休山となってしまった。なお最初に開発された下柵原鉱床は下柵原鉱山と呼ばれ、久木鉱山とともに柵原鉱山の浮沈とは関係なく順調な経営を続けていた。
1912年、下柵原鉱山の経営者が柵原鉱山を買収し、下柵原鉱山と柵原鉱山は合併して柵原鉱山と呼ぶようになった。さっそく柵原本鉱床の再開発が開始されたが、鉱床が吉井川に近いこともあって湧水量が多く、開発は困難を極めた。
この頃、彦島、直島など、瀬戸内海沿岸の各地に古河鉱業や鈴木商店などが非鉄金属の精錬所建設を進めていて、精錬する鉱石を得るために財閥間で瀬戸内地方の鉱山の買収が盛んになった。そのような中、藤田組は柵原付近の鉱山に目をつけ、1915年には柵原鉱山以外の鉱山、鉱区の買収を行い、綿密な調査の結果有望との結論が出た上で1916年、柵原鉱山を買収した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
柵原鉱山は岡山県美咲町にあった、黄鉄鉱だそうです。
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